To be or not to be

好きなことを書き散らします

カウンターカルチャーを責めないで〜またはオーガニック原理主義の闇について〜

 佐々木俊尚さんのcakesの記事「反逆文化の成り立ち/アウトサイダーとしてのエリート意識【第5回】」という記事で、オーガニック原理主義カウンターカルチャーの関係について述べています。

 これは佐々木俊尚さんの『そして、暮らしは共同体になる。』の全原稿をcakesで公開する、という新刊プロモーションで公開されたものです。

 ここでカウンターカルチャーについて書かれていたので、ちょっと触れてみます。

 

■反権力、反体制育ち

 僕は反権力、反大企業、反大衆消費社会といったカウンターカルチャーが正しいとすり込まれて育った世代です。ぼくらが聞いてたラジオのパーソナリティとか読んでいた作家とかにそういう方向性の人がいて、そういう考え方が新しくて正しいと思ってきました。ラジオやテレビだと永六輔がそんな感じでしたし、作家だと初期の平井和正などのSF作家もそうだったし、朝日新聞の記者だった本多勝一著作も、中学校の美人の同級生に勧めらて読んで影響を受けました。その子は、イガラシさんという、美人でスタイルが良くて頭が良くて運動もできて、しかもリーダーシップがあって面白いことを率先してやる子でした。お父さんはたしか大学の先生だった気がします。その子がクラスの図書係になって、期限内に返さないと「図書裁判」にかけられるってルールを作った。で、ルールを破った奴が実際にでてきて、放課後クラス全員残って裁判をやりました。図書係が検事で被告には弁護人がついて、まあ裁判ごっこです。これが超楽しみでクラスがめちゃ盛り上がった。ただ、実際の裁判は正論が多くて最後はいまいち尻すぼみになって大盛り上がりで終了とはならなかったし、そのせいか2回目はなかったのですが、でも、あれは面白かったです。

 話がずれましたが、そういうクラスのちょっと面白い子から本多勝一の「殺す側の理由」や「殺される側の理由」を読んで影響を受けました。さらにその後、本多勝一がリコメンドしていた、宗教学者山本七平著作キリスト教に関するウソや間違いを暴きまくった「偽ユダヤ人と日本人」も読んで感銘したりしました。

 音楽も基本的に反体制な歌詞のフォークやロックの雰囲気がまだ残っていたりしてて、僕らの世代にとって、反体制って若者にとってデフォルトに近い感じがありました。

 

FUDで脅かす人は信用できない

 でも子供心にも、本多勝一の書いていることに全部納得したわけではなくて、例えば「田舎のおじいさん、おばあさんのほうが都会の人より正しいことを知っている」みたいなことを書いていると、普通に「そうかなあ?」と思いますよね。ずっと後の話で、アスキーで雑誌編集者になったときも、本多勝一南京大虐殺の際に日本軍人が軍刀自慢で中国人を100人切りしたエピソードを書いてたことについて、当時僕が担当していた筆者の国友正彦さんが、「僕の家は刀鍛冶の血筋なんですが、日本刀で100人なんて切れるわけがないんですよ」なんて話してて、やっぱそうなのかと思ったり。

 日教組の問題についても、高校生ぐらいから、そういう情報を発信するやつがいて、そもそも若者だから、既存のものに反発したいという気持ちがまずあって、反体制的な考え方を門前の小僧的に覚えたのだけど、さらに反体制の変なところにも気がついて、反・反体制的な考えも持つようになった。

 だから僕の中では、素直な子供時代にすり込まれた反体制的な姿勢がデフォルトになっていて、今の若い人達が体制よりの姿勢をとったり自民党を無批判に支持するのを見るとビックリしちゃうんですが、同時に、3.11をきっかけにした原発問題とか沖縄の基地問題に関連したオスプレイの配属問題とか見ると、反体制側の態度や姿勢についても疑問をもってしまって支持できなくなった。

 細かくはここでは触れないけど、反体制派の人達の意見って、基本的に科学的でも合理的でもないことが多い。反体制のプロパガンダの基本はFUDFUDってFear=恐怖、Uncertainly=不安、Doubt=不信の頭文字をとってFUDっていうんですが、放射能怖いよ、電磁波怖いよ、オスプレイは危険だよ、みたいにこれ使う人たちは基本的に信用ならない。まあ、ネトウヨFUDをよく使いますが、つまり、いわゆるパヨクもネトウヨも、相手を叩きのめして自分の主張を押し通したいだけの人々で同質だなと。信用できないし、支持できないという点では同じだと思っています。

 反体制のFUDといえば、大ヒットした『買ってはいけない』シリーズとか、最近だと『貧困大国アメリカ』シリーズとかが典型的だと思います。

 

■オーガニック原理主義者のFUD

 FUDで信用できないと言えば、佐々木さんがオーガニック原理主義と呼んでいる、自然食についての情報も同じですね。近年で有名なのは、ヤマザキの食パンが何日経っても黴びないという話。普通の家庭で作ったパンはすぐ黴びるのに、ヤマザキの食パンはなかなか黴びないのはおかしい。身体に悪い保存料が大量に入っているに違いない、という言説が定期的に流れてきます。これの答えは、家庭の台所は雑菌だらけなので、そんなとこで作ったのがすぐ黴びるのは当たり前。ヤマザキなど食品メーカーは高度な無菌状態で作っているから、未開封ならずっと無菌だからカビも腐敗も進まないし、開封してもそもそも雑菌まみれの家庭で作ったパンよりは黴びにくいのは当たり前。でも、オーガニック原理主義の人達は、「手作り」が何より尊いと思っているから、そこで思考停止してしまって、科学的な条件について考えるということをしない。

 同じく市販のペットボトルの緑茶は、中国で廃棄用の汚染されたクズの茶葉を使っているから危険だというのもときどき流れてきますが、これも典型的なFUDネタですよね。そもそも、大企業はそんなリスキーなことをしなくても、安全な茶葉を大量に買い付けて工場で効率的に生産した方がコストダウンできる。ここら辺も企業経営や経済の知識が少しでもあれば直感的におかしいと思えるはずですが、、思考停止しちゃっている人達はそこまで考えが回らずに、逆に信じてウソの情報を広めてしまう。

 

カウンターカルチャーはなぜ生まれたのか

 なぜ人はこんなに愚かなのか? 佐々木俊尚さんは、その根底には「多くの消費者は騙されている」「大企業は私たちを騙そうとしている」「政府は信用できない」という考えかたが背景にある、としています。そうなってしまう根本の原因については、カナダの哲学者ジョセフ・ヒースの著作を引用して、次のように紹介しています。

 1960年代から70年代にかけてドラッグ、ロックンロール、ヒッピーなどのカウンターカルチャーが生まれました。それが生まれた要員はふたつあり、ひとつは大衆消費文化の急速な広まりに対する反発、もうひとつは第二次世界大戦中のナチスドイツで蔓延ったファシズムの台頭があったことだというのです。ナチスドイツが行ったのは暴力で国民を支配する恐怖政治ではなく、国民をうまく扇動して喜んで協力させることでゲシュタポが処理しきれないほどの密告が寄せられたというのです。

 ナチスドイツがさまざまな宣伝で国民を洗脳して、戦争に向かわせ、ユダヤ人の大量虐殺をまで引き起こしたのは有名な話です。それゆえに欧米では政府や大企業など体制側は国民を常に騙そうとしているという不信感が基本的な態度として身についてしまっているということのようです。

 

ジョブズを殺したオーガニック原理主義

 佐々木さんの主張について、まずオーガニック原理主義カウンターカルチャーの結びつきの深さについては、僕もうなずけることがあって、たとえば、アップル創業者のスティーブ・ジョブズも、カウンターカルチャーやヒッピー文化の影響を強く受けたひとでした。それゆえにオーガニック原理主義的なところがあって、若いときは「林檎しか食べてないから風呂に入る必要はない」と言い放って悪臭を社内に振りまいて迷惑をかけたり、キャリアを積んで成功したあとも脾臓癌の診断を受け入れられずにマクロビ療法に走ってしまい、正式な癌治療を受けるのが遅くなってしまった結果、50代の若さで命を落としてしまいました。カウンターカルチャーを好む人は、オーガニック原理主義にもはまりやすいのは確かでしょう。

 また、大量消費文化への反発がカウンターカルチャーを生んだというのもだいたいうなずける話です。先日、アメリカ音楽史という本を読んだのですが、米国では米国発の文化の収集と定着を狙って整備された米国の民謡が、反大衆消費文化、反都市文化の宣伝メディアとして"フォークソング"となり、その反体制色が濃くなりすぎた結果として商業主義と相容れなくなり、レコード会社が「カントリーソング」というカテゴリを別途立ち上げて、両者は別々に進化することになったそうです。

 

ナチスドイツだけが国民を騙したの?

 ただ、もうひとつの根拠であるナチスドイツのプロパガンダに騙された経験が政府や企業を信用しない態度を形成しているという話については、ちょっと疑問があります。ナチスに騙されたのはドイツ国民であって米国やカナダの国民ではないからです。日本でも政府や企業の発表を「大本営発表」と第二次大戦中の戦意高揚のために水増しされた戦果の発表になぞらえて揶揄することがよくありますが、そもそも、国が国民を騙すことはナチスドイツに限らず世界共通で行われていることです。

 とくに米国は陰謀が得意で、近年ではイラクに「大量破壊兵器」があると主張して、国連各国までたきつけてイラク侵略戦争をしかけて、それなりに幸せだった国をメチャクチャにしてしまいました。米国はその前の湾岸戦争のときも偽のクエート人に議会で演技の証言をさせたとか、第二次世界大戦でも対ドイツに参戦するためにウソの理由を作って国民を騙したとか、その手のエピソードに事欠きません。日本の南京大虐殺も、米国が日本を悪者にするために捏造したのがそもそもで、後に中国がそれをさらに利用したという説も、もしかしてそうかな、と思わせられます。

 僕が思うに、国が国民を騙してきたのは、歴史上普遍的な現象で、情報公開制度などが発達して国がウソをつきにくくなった現代の状況のほうが特殊なのではないでしょうか。カウンターカルチャーの原因にナチスのプロパガンダへの反省があるというのは、それ以外の政府は正直だったという前提があるのでちょっと無理があるんではないかなと。

 ちなみにAmazonで、『貧困大国アメリカ』を検索したら、著者の堤未果さんの本に『政府は必ず嘘をつく』というのが、政府が嘘をつくのはナチスだけでないことと、カウンターカルチャーの基本姿勢が政府を嘘つきと見ることであるのが、よくわかります。

 

カウンターカルチャーは人間にとって当たり前の事象

 カウンターカルチャーの元になっているには、もっと根本的な人間の欲求があると思います。人間には「寄らば大樹の陰」と大きなものに依存したい、家や村や会社など組織に所属して安心して暮らしたいという帰属欲求、帰属心と、逆に自分の力で生きていきたい、権力者や組織に縛られたくないという独立心の相反するふたつの気持ちがあります。

 これを有名なマズローの5段階欲求、つまり生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、自我欲求、自己実現欲求の5つに当てはめると、帰属したい心は安全欲求や社会的欲求にねざし、独立心は自我欲求や自己実現欲求に根ざしていると考えられます。

 佐々木俊尚さんは、オーガニック原理主義者は「アウトサイダーとしてのエリート意識」から「自分だけが、ほかの人の知らない真実を知っている」と優位に立ちたい、そのためは、「大衆はつねに騙される存在でなければならず、騙す存在がいなければならない」と、構造を解き明かしています。これも根源にあるのは、ナチスへの忌諱というよりは、自我欲求や自己実現欲求の歪んだ形と捉えた方がわかりやすいのではないでしょうか。

 考えてみれば、この現象はオーガニック原理主義に限らず、いまのネットでは、誰かを「情弱」と罵倒しながら、自分こそ真実を知るものとして勝ち誇るマウンティングゲームとして、頻繁に見られるものです。

 カウンターカルチャーじたいは、人間の独立心や自己実現欲求が生み出す自然な産物であり、人間が生きる限りはあり続けるでしょう。たとえば、江戸時代の黄表紙本とか川柳にもカウンターカルチャーを感じ取ることができるように。カウンターカルチャーじたいは否定されるべきものではないと僕は思います。

 

■本当に問題なのは似非科学

 オーガニック原理主義の本当の問題は、科学的に間違った情報が安易に流布されることにあって、そこには詐欺や似非科学や迷信の類が沢山あり、結果的に健康被害を引き起こす可能性があるということです。ジョブズのように正しい癌治療を受ける機会を逃して、みすみす命を落としてしまうことが実際に起きているのです。

 この話は、例のキュレーションサイト問題にもつながります。本当の問題はカウンターカルチャーではなく、似非科学なんじゃないでしょうか。

 

未婚・少子化の対策のためには、従来の家族や結婚の制度を止めた方がいい説

SPA!の記事を読むとゲンナリする。基本的に人の不幸をのぞき見て「自分はまだマシ」と安心するための、独身不幸ネタの嫌らしい記事が並んでいる。

この手の記事に登場する不幸な独身中年男性は、不器用で無趣味。仕事以外に社会と接点がなく、病気になって仕事をしなくなると社会と縁がなくなって、最後には孤独死が待っている。

まあ、こういう人は昔も今もいるだろうけど、今の日本の未婚率がどんどん上がっているのは、まったく正反対の人が増えているからじゃないか。

簡単に言って、みんな、楽しすぎるから結婚しないのだと思う。

昔は情報の流通量も少なかったし、人間関係も狭かった。そんな中で、恋愛や結婚は人生の中で重要な比率を占めていた。しかし、今はネットを通して膨大な趣味の情報に常に接触し続け、同好の士と常にコミュニケーションを続けることができる。

 

僕は、SNSを通じて、読書やアイドルやゲームなど、いろんな趣味の知り合いができたけど、みんなとても楽しそうだし、とても忙しい。

僕みたいに、いろんな趣味を掛け持ちして、仕事も家庭もそこそここなして、というのではなく、ひとつの趣味にどっぷりハマって、そこで趣味の友達もできて…という様子を見ていると、羨ましいくらいに、とても楽しそうに見える。彼らのプライベートにそんなに詳しいわけではないけど、あれだけ時間とお金を趣味に注ぎ込んでいたら、異性と付き合っている暇なんてないだろう。

とくにアイドル趣味とか、アニメ趣味とかの人達は、自分の理想に近い異性を常に目の当たりにしているのだから、現実の異性に注意を払っているヒマなんてないだろう。

「アイドルやアニメとかの特殊趣味の話を一般化するな」という意見もあるだろうが、福山雅治堀北真希が結婚してショックを受けている人も似たようなものである。

 

人が恋愛したり結婚したりするのは、一人では寂しいからだ。でも、今の日本では、趣味のひとつもあれば、寂しいなんてこと、まずない。いまのままでは、いくらメディアや行政が少子高齢化の危機を説いても、きっと効果なんか出ないだろう。

ちなみに、少子高齢化は日本だけでなく世界的な問題で、人口抑制のために一人っ子政策をとった中国も近い将来人口減少期に入るし、アフリカでさえ、すでに人口爆発期はすぎつつあるらしい。

インターネットが世界規模で普及して、本格的な高度情報社会に突入したいま、僕らは情報の快楽に溺れて、恋や結婚を必然としなくなってしまった。かと言って、いまからインターネットを遮断したり、アイドルやアニメを禁止するわけにもいかない。

保守反動勢力は、古い日本の家族制度を復活させようとしているけど、少子高齢化対策としては、それはむしろ逆効果になるだろう。むしろ、今の家族制度をやめて、シングルマザーやシングルファザーが気楽に子供を作って、自分の趣味と子育てを両立できるような社会制度を作らないと、日本はどんどん衰退していくばかりになると思う。

 

 

君の名は。とシン・ゴジラと細部にこだわるヲタクの限界について

君の名は。』をようやく見ました。1カ月ほど前に平日ふらりと映画館に寄って見ようとしたら満席で、「え? 公開から日にち経っているし、平日なのに?」とビックリ。反省して、前もってネットでチケット予約して行ってきました。早めにチケットを確保したでの、中央の一番良い席で見ることができました。

 

■細部はいろいろ気になる

 感想はといえば、最初は細かい疑問がありました。特に主人公ふたりの入れ替わりについては、同い年とはいえ、お互いの存在をまったく知らなかった2人が急に入れ替わって、誤魔化しながらも日常生活を営むことが本当にできるのだろうか? というのが最初の疑問。男女の入れ替えといえば、大林宣彦の名作『転校生』ですが、あれは同じ街に住む同級生ですからね。いろんな状況を共有しててお互いのみが入れ替わったからあまり無理を感じなかった。

 でも大都会・東京に住むイケメンボーイと飛騨の山奥で代々神職の家に生まれた少女が入れ替わって生活が成立するのか? はかなり気になるところ。でも、そこのハテナこそ、観客の興味を引き込むひとつの釣り針だったと思います。

 思えば、細部にはいろいろ釣り針が仕掛けられていました。物語のひとつのキーになる「口噛み酒」についての姉妹の掛け合いも、たしかに違和感あるのですが、その違和感こそ新海誠が仕掛けた釣り針だと思うんですよ。9歳と16歳があんな会話するのか? 中のおっさんの妄想じゃないのか? みたいな感想もあるみたいですが、全然ありうると思います。世の中には子供らしい子供もいるけど、中身が最初から大人な子供もいるんです。僕自身がそうだったから、その手のお子さんに会うと一発でわかります。逆に自分の子供が、本当に絵に描いたような子供だったので「子供らしい子供って本当にいるんだ!」とビックリしたくらいです。

 芸能界を見ても、芦田愛菜ちゃんなんて、8歳くらいから中身が大人だった感じですが、いま世界を席巻中のアイドルユニットBABYMETALのMOA-METALこと菊地最愛ちゃんも、小学生の頃から「アイドルだけどアイドルオタク、ちっちゃい大人」と自己紹介ソングで歌っちゃうくらいにオヤジの心を知り尽くしていたことで知られています。

 

■ディティールにこだわった2つの作品の本質

 閑話休題。『君の名は。』の魅力は、アニメであるにも関わらず、細部まで非常にリアルに構築された日常世界の描写や主人公達の感情描写にあります。だからつい、“すべてがリアルでなければいけない”というトラップに、特に細部にこだわるヲタク層がハマってします。それでヲタクはディティール論をあれこれ展開するわけですが、物語の本質はそこではないでしょう。置かれたありえない状況の中で、主人公達が何を感じ、何に挑み、何を成し遂げたか。そこが物語の本流で、細部の描写は物語世界を補強する足場に過ぎないのに、なぜかみんな「彗星が…」とか足場の話ばかりしている。

 足場ばかり話題になるといえば、『シン・ゴジラ』も同じです。これも僕は大好きな映画なんですが、自分の中でこの映画について何を語るべきなのか、ずっと整理できていませんでした。確かに『シン・ゴジラ』の作り込みは凄い。膨大な登場人物たちが延延と会議と調査を重ねながら、ゴジラ対策を立案し、実行していく。そのプロフェッショナリズムの描写がとてもカッコ良くて震えたのは僕も同じです。でも、「シン・ゴジラは会議が長いから凄いんだ」とか、「自衛隊の出動シーンで『宇宙大戦争マーチ』が使われているから凄い』とか、本質ではないですよね。確かにそこもいいのだけど、所詮は足場の話です。物語の核ではない。

 『君の名は。』と『シン・ゴジラ』は、実は物語の核の部分は同じモノを描いていたと思います。それは「勇気」と「共感」です。小さな個人の力ではどうしようもない圧倒的な「力」を前にしたとき、人はどう行動するのか? 普通の人は逃げるか諦める。でも、主人公は全力で逃れられない運命に抗おうとする。そして、それに共感して一緒に戦ってくれる人たちがいる。助けてくれる人がいる。僕らはそういった「勇気」と「共感」を目撃したときに感動します。

 今はフィクションでもノンフィクションでも、いろんな勇気と共感が取り扱われ、作品化され、商品化され消費され続けています。そんな中でもこの夏、君の名は。』と『シン・ゴジラ』が大勢の人に支持されたのは、そこに示された勇気と共感がとても力強く納得のいくモノで、観客の僕らも一緒に共感できるものだったからでしょう。

 

■ボーイ・ミーツ・ガールのいろんな答え

 シン・ゴジラ』の場合、ゴジラという未曾有の災難とどう戦うのかと、そこで示される「智恵と勇気」が大きな一本の太いテーマになっていました。君の名は。』はそれに加えて主人公の少年と少女の関係はいったいどうなるのか? というもうひとつのテーマがありました。いや、むしろそれこそが君の名は。』の本質であり、絶大な脅威に対する勇気と行動のエピソードですら、2段目の足場でした

 「ボーイ・ミーツ・ガール」という普遍的な物語構造に対して、過去に膨大な物語が作られてきて、新海誠もそのテーマでずっと作り続けてきた作家です。僕はその全部を見てきたわけではありませんが、思春期の細やかな心のひだの描き方こそ新海誠作品の魅力のひとつであると言えるでしょう。でも、青春の描き方の細部ばかりに注目して「新海誠作品はみんな同じ」と切り捨ててしまうのも、木を見て森をみないディティール偏重主義なんじゃないかと思います。

 僕が君の名は。』に感動したのは、やっぱり物語が良かったからです。少年と少女の強い思いが、いろんな不可能を乗り越えていく。そこに感動したから、小さなディティールは最後には目に入らなくなる。青春の物語作家として、新海誠は順調に進化していると思います。

 

ディティール好きオタクの限界 

 「ヲタク(オタク)」という言葉は、会話のときに相手に向かって「お宅は(何が好きなの/どう考えているの/etc.)?」という問いかけ方しかできない、一部の不器用なマニア層を指す言葉として発明されました。僕自身も典型的なマニア気質で、趣味の話をするのが大好きで、いまだに暴走することもありますが、でも氾濫するディティール論にはちょっと違和感を感じます。

 ディティールが不要とは言いません。あの勇気に共感できるのは、細かに積み重ねられたリアルな物語世界があったからです。でも、ディティールばかり気にして、その一部が自分の知識や常識と異なるからと言ってケチをつけるのはお門違いですし、自分の気に入ったディティールの話ばかりするのは、作品の話をしているのではなくて、自分の趣味の話をしているだけです。

  ヲタク語りは、それじたいがコンテンツになるくらい面白いものにもなり得ますが、物語はもっとキャラクターやエピソードの魅力で語られるべきだと思うのです。

 僕の好きなシーンをひとつあげると、君の名は。』では、美術の時間にヒロインの三葉が思いっきり机を蹴飛ばすシーン。ホンの数秒のカットですが、あそこにいろんな要素が詰まっている。そういう説明的で無くいろんなことを説明してしまうのが映像作家として深海誠の凄いところだと思います。

 『シン・ゴジラ』では、「仕事ですから」と「良かった」ですかね、やっぱ。

 

 

ポケモンGOのサーチアプリが全滅した件

 10月7日の早朝、ポケモンGOのトレーナーの間に衝撃が走りました。懸念されていたXデーが来てしまったのです。ポケモンの隠れている場所をGoogle マップ上にマッピングしてくれる非公式のサーチアプリやサービスが全滅してしまったのです。

 今年7月にサービスが開始されたポケモンGOですが、「すぐ飽きる」とdisられながらもブームは相変わらず続いており、先日も米国のAppStoreランキングで1位に返り咲きました。国内でも、ポケモンが効率的に捕獲できるスポットやレアポケモンが出現しやすいお台場などは、もう寒くなってきたのに相変わらず大勢の人が詰めかけています。

 この熱心なポケモン・トレーナーたちの常用ツールと化していたのが、「P-GO Search」などのサーチアプリでした。ポケモンGOのサーバに、正規のアプリのフリをしてアクセスし、隠れているポケモンの位置情報その他を取得してきて、地図上に指し示してくれます。それだけでなく、消滅までの残り時間、現在地から向かって間に合うかの予測、指定したポケモンの出現通知や過去の出現履歴表示など、P-GO Searchはポケモンを効率的に捕獲するためのさまざまな便利な機能を備えていました。

 僕もレベル25までは、これらのサーチアプリは「邪道」と使っていなかったのですが、Twitterで情報収集してみると、みんな凄い勢いで国内142種のポケモンをコンプリートしているのを知り、自分もコンプしたい! と遅まきながら9月中旬から使い始めました。

 ポケモンGOポケモン集めは、サーチアプリがなくても、もちろん、なんとかなります。僕も100種類弱までは自力で集めました。しかし、サーチアプリの導入と、ネットで収集したポケモンの巣や生息地の情報を活用することで、ポケモン集めは恐ろしく効率化しました。

 サーチアプリ導入前のポケモン狩りはこんな感じでした。

  1. ポケモンがいそうな場所を歩く
  2. ポケモンの「影」が出たら付近を歩き回って捜索
  3. 運良く遭遇できたらゲットする
  4. 新しいポケモンなら図鑑に登録される

 

 サーチアプリ導入後はこうなりました。

  1. 欲しいポケモンを決める。
  2. 進化元となるポケモンの巣に行く
  3. P-GO Searchで出現場所を特定し乱獲
  4. 必要な数が集まったら進化させて図鑑の空欄を埋める

 このやり方でポケモンGOはまったく違うゲームになりました。ポケモンとの偶然の出会いに頼るのではなく、目標を決め、作戦を立て、情報交換しながら状況を俯瞰し能動的に捕獲作戦を実行する。映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』で、おとり捜査員との待ち合わせ場所に来る連続殺人犯を、多数のカメラと隠れた捜査員の目で監視して捕獲しようとするシーンがありましたが、P-GO Seachによるポケモン捕獲は、司令室で指示する指揮者と、現場で犯人確保に奔走する捜査員の両方の体験を同時にしているようなエキサイティングな楽しさがありました。

 それは、恐らくNiantic社が想定していたノンビリとしたゲームとはまったく対極にある集団ハンティングゲームでした。ひとりでやっていたとしても、有名なポケモンの巣でなくても、レアポケモンが現れるとどんな深夜でもあちこちから人が現れてきて、ポケモンを捕獲しようとしてました。組織化されていないのに統制だって行動するハンター群でした。「あのころの僕らは、ポケモンGOではなくP-GO Searchというゲームをプレイしていたのだ」という指摘がどこかで書かれていたらしいですが、確かにその通りだと思います。

 P-GO Searchのおかげでポケモンの捕獲は効率化し、かつエキサイティングになりました。その一方で、ジムバトルに強い激レアポケモンラプラス」を求めるポケモン・トレーナーたちがお台場など各所で騒ぎを巻き起こしたり、最強の「カイリュー」を作りたい人達が、上野不忍池周辺で参拝者とトラブルを起こして、ポケモンGOの禁止の事態にまでなってしまいました。

 こういった過熱状態を作り出した原因が、P-GO Searchなどのサーチアプリにある、という指摘は間違ってはいないでしょう。

 サーチアプリは、一部の超ガチ勢だけの楽しみだった早期の図鑑コンプを誰でも目標にできるよう敷居を下げてくれて、ポケモンGOの人気上昇と継続に大きな役割を果たした一方で、過熱させすぎたせいで社会問題まで引き起こした、というのが客観的な評価と言えると思います。

 一方でP-GO Searchは、危険なポケモンの出現地点(ポケソース)の情報共有による安全性の確保などにも一定の努力をしていました。そもそもコンピュータとは「知的自転車」であり、自転車が人間の移動能力を補助強化するように、智恵をもって解決すべき事項があればそれを補助して解決しやすくするものです。その点、ポケモンGOは、コンピュータの力によって問題解決をしやすい案件だったため、サーチツールの出現も予測されるべき必然だったと思います。

 しかし、サーチアプリの出現は、ゲームとしてのポケモンGOの消費ペースを速めすぎるという問題もありました。本来、ポケモンGOは僕らのリアルな生活圏にバーチャルなポケモンの存在を重ね合わせることで、AR(拡張現実)アプリとしての初めての大規模な成功例でした。Niantic社のジョン・ハンケCEOが「まだ10%しか実現していない」とする残りの9割には、単なるゲームの枠を超えた展開があるのではないかと勝手に想像しています。アニメ『電脳コイル』みたいな世界が、ポケモンGOによって実現化される可能性だっておおいにあると思います。

 このままサーチアプリを野放しにすれば、ポケモンGOは単にポケモンをコレクションするアプリとして人々に認識され、飽きられてしまう可能性がありました。だから、ポケモンGOの人気拡大に果たした役割もあったとしても、運営としてはその存在を認めるわけにはいかなかったのでしょう。

 しかし、時計の針を巻き戻すことはできません。一度、サーチアプリの効率を知ったトレーナーたちは、かくれているポケモンの距離も方角もわからない現状にストレスを感じているはずです。Niantic社は現在開発中といわれるかくれているポケモンの距離や方角をある程度ガイドできる機能を早期にリリースできるように努力すべきでしょう。

 また、サーチアプリも完全に死に絶えたわけではなく、海外では早くも「FastPokeMap」というアプリが、復活ののろしを上げ始めています。運営とハッキング系ユーザーのイタチごっこも、まだしばらく続きそうです。

ポケモン地図「FastPokeMap」をインストールする方法

 

 

ポケモンGO 強いポケモンの育て方 〜レベル25への道〜

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映画館の飲み物がちょっと高いなと思う件

 最近、109シネマズ二子玉川に行くと、「他店で購入された飲食物の持ち込みはご遠慮ください」というアナウンスを頻繁に聞くようになった。前はこんなことはなかったと思う。

  元々、昔の映画館では、飲み物やお菓子をどこで買おうが煩いことは言われなかった。なんでかと言えば、みんな映画館の売店で買って、外から持ち込むことも少なかったからだ。その理由は3つある。

  1. 映画館で買うほうが便利だから。
  2. 映画館で買っても割高では無かったから。
  3. 映画館で買うことじたいが楽しみだったから。

  映画館の売店で買い食いするって、銭湯でコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を買って腰に手を当てて一気飲みするのと同じくらい、誰にとっても「密かな楽しみ」だったと思う。凄く昔は普通の駄菓子とかアイスとかサンドイッチくらいしかなかったと思う。

 ポップコーンとハーゲンダッツのアイスが買えるようになったのは、どちらが先だったのだろう? そんなにお腹が空いて無くてもつい買ってしまった。楽しかったからだ。

  でも、今はその楽しさが少しずつスポイルされて、映画館の売店で買うのが億劫になっている。その理由も3つある。

  1. 映画館で買わなくても、コンビニや売店があちこちにある。
    持ち歩きに便利なペットボトルその他も発明された。
  2. 映画館で買うと、とにかく割高。一番小さいサイズの飲み物が300円もする。
    ちょっとのどを潤したいだけなら130円のペットボトルで良いはず。
  3. 映画館で買うのが面倒。
    休日の売店は大混雑で長蛇の列ができ、上映に間に合わないのじゃないかとヒヤヒヤ。メニューも増えて選ぶのが面倒になった反面、ちょいゴージャスを装ったスイーツとか食べてみると値段の割にたいしたことなかったり。

  とはいえ、さすがに自分は外で買って持ち込んではいないが、過日、エグゼクティブシートの隣の席の若い女性が、いかにも持ち込みましたというお菓子とペットボトルを上映前の時間にボリボリ、グイグイしてて、マナー違反に呆れるというよりは、気持ちわかるなあ、と思ってしまった。

 たぶん、彼女はこの映画館のヘビーユーザーなんだと思う。エグゼクティブシートは、常連用のポイントカードを持っていれば通常価格で買える。態度もすごくくつろいでいて自分の部屋みたいだったから、何度も来ているのだろう。そして上映中はまったく音を立てなかったから、真摯に映画を見ているはず。そういうヘビーユーザーはチケット代を使う分、ほかの経費を抑えるために、コンビニでお菓子やペットボトルを買って持ち込んじゃうのだろう。ちなみに、二子玉川駅から109シネマズに間には、謀ったかのようにコンビニがない。

  サービス産業として、利益率をあげるために客単価を上げたい。そのために売店の売上を増やしたい。そこまではわかる。でも、そのために売店のメニューを高くして、持ち込みさせないアナウンスをするのは違うと思う。

 サービス産業なのだから、あくまでおもてなしに徹して、お客に気持ち良くお金を払わせる努力をするべき。そのためにはメニューの価格構成を柔軟にするべきだし、休日に売店が混み合うときは、スクリーンまで売り子を派遣するとかすればいい。10年前はハーゲンダッツのアイスを売りに来てくれて、あれは嬉しかった。

  たぶん、たまに映画館に来る人には、まだ売店で買うのを密かな楽しみにしている人が大勢いると思う。その人達が常連化したときにも、売店で気持ち良くお金を落とせるようにしてほしいと思う。

 

企業の電話受付をAI化すると、世の中少し変わるんじゃないか説

 

■「批判が殺到」って何人くらい?

資生堂のCMが放映中止になったことが話題になっていますね。

女友達から誕生日に「25歳からは女の子じゃない」と言われるCMに対して、「差別的」「セクハラ」「不快」などという苦情が殺到し、ついに資生堂が放送中止を決めた、という話です。

netgeek.biz

これに対して、僕の周辺(SNS)では、「どこがセクハラなのか?」「企業側も毅然とした態度でクレームをはね除けるべき」みたいな意見が目立ちました。まあ、僕の回りは、僕と同世代のおじさんが多いので、普遍的な意見ではないかもしれませんが。

 

このCMの是非はここでは論じませんが、企業がちょっとでも刺激的なCMや広告を展開すると、とたんに「批判が殺到」して、放映中止になってしまう例が後を絶ちません。

また、テレビ番組も当たり障りのないものばかりになって、「最近テレビがつまらない」と言われるのも、批判に潰されることを怖れてのことだと言われています。

 

こういった事象について、多くの人がうっすらと共有している問題があると思います。

それは「たいした問題じゃないのに、一部の声の大きい人達の意見ばかりがゴリ押しされているんじゃないか?」ということです。

 

「苦情が殺到する」とよく紋切り型でニュースは報じますが、それはいったい何件のことなのか? 10件? 100件? ちなみにテレビの視聴率で1%は100万人相当とされています。仮に1000人が苦情を申し立てたとしても、0.001%にしか過ぎません。

しかし、企業からすると、たとえ十数人(0.0000n%)からの苦情だとしても受け入れざるを得ないのではないでしょうか。なぜかというと、十数人が一斉に企業にクレームの電話を入れると、それだけで企業の電話はパンクし、内部は対応に追われて通常の業務ができなくなってしまうからです。

タダでさえ忙しい一流メーカーやテレビ局で働く人達にとって、わずか十数件だとしても、それは日常の仕事と生活を脅かすテロとなりうるでしょう。

 

■電話がウイークポイントになっている

いっぽうで電話を使って企業を攻撃する人は、なんらかの理由で時間に余裕があるのはずです。時間に余裕がある人が、時間に余裕の無い忙しい人達の時間をさらに奪うというテロを通して、自分たちの意志や希望を社会に無理矢理押しつけている。そんな事象がだんだんと広まっている気がします。

 

ちなみに「時間に余裕のある人」とはどんな人達なのか? すぐに「ニート」と思い浮かべてしまうかもしれませんが、自分たちの信じる社会正義を実行するために、すべての家事を放り出して(もしくは、巧みに調整して)、情報収集や攻撃に時間を費やす主婦達の話を読んだことがあります。

また、「俺はNTTの職員なので、何時間でもクレーム電話を続けることができる。だからクレームのお詫びにタダでソフトを送れ」と恐喝まがいの電話かけてくる人もいたようです。これは昔、実際に某社のユーザーサポートを電話で代行して受けているサポセン(サポートセンター)の人達から聞いた話です。いまはもう、そんなにノンビリした職場は地方のNTTにもないかもしれませんが。

 

■電話攻撃から仕事の現場を守るために

なんでこんなことになるかと言えば、いまだに電話という150年も前に生まれた古い技術に頼って仕事をしているからだと思うのです。電話という、集中攻撃に弱く、受け手にダイレクトに影響を及ぼす通信手段に頼る限り、「電凸」(電話による突撃)と呼ばれる簡易テロを防ぐことはできないでしょう。

 

そこで提案ですが、基本的に企業の受付電話や、代表電話の対応はすべてAIで受け答えするような技術を開発できないでしょうか? 

人間と完全に自由に会話し、柔軟に対応するAIの開発は大変でしょう。しかし、電話の応対に特化したAIなら開発可能な気がします。

 

1. 電話をとる「はい、xxxxです。」

2. 用件を聞く。

3.-1【電話の取り次ぎの場合】

3-1-1. 具体的な名前が出れば、その人の内線に転送する。

3-1-2.転送して出なければ、用件を聞いてテキスト化して担当者に送る。

3-2 【一般的な問い合わせやクレームの場合】

3-2-1. 用件と連絡先を聞いて、「あとで折り返す」と返答する。

3-2-2. 社内のサポート管理掲示板に起票する。人間があとからそれをチェックして対応する。

 

これくらいだったら作れそうな気がするんですが、どうでしょう?

 

残りの問題のは、クレーム電話で回線がふさがってしまうことですね。

これについては、外部向けの連絡先はすべてLINEやSkypeにするか、逆に固定電話は外部からの問い合わせ専用にして、業務はLINEやSkypeで行うようにすればいいと思います。

 

以上、思いつきでちょっとアイデアを書いてみました。

どこかのAI関連ベンチャーで実現してくれたら嬉しいです。

(すでにあったりして…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポケモンGOというスポーツについて

ゲームとスポーツの境目は?

 いつも思うのだが、ゴルフは誰もがスポーツと認めるが、ビリヤードやダーツは、ゲームなのか。それともスポーツなのか。ゴルフは、いっけん野原を歩き回っているだけで、ヘタすると電動カートに乗って移動するのを見るととてもスポーツという感じはしないが、いっぽうで、あの小さなボールを遠い距離に正確に飛ばす技術には相当な鍛錬、筋力、集中力が必要なわけで、まあスポーツなんだろうなと思う。

 それに対して、ビリヤードは遊技場や酒場で、ノンビリとビールを飲みながら楽しむこともあるけど、ボールを的確にコーナーに落とすには、かなりの鍛錬と集中力を必要とするし、長い試合を連続してこなすには、やっぱり筋力も必要だろうし、もしかするとスポーツなのかもしれない。

 

eSportsってスポーツなのか?

 最近気になるキーワードに「eSports」なるものがある。従来のTVゲーム(という言い方は古い?)をスポーツと捉えて、大会を行ったりプロ化を視野に入れたキーワードだ。まあ確かにゲームは技術と集中力が必要なのはわかるけど、さすがに身体を使うというイメージは、一部の体感ゲームを除けば無い。単にゲーマーがTVゲームを格好良く言い換えただけだろうとか、普段ゲームをしない僕はeSportsという言葉に違和感を感じていた。

 ところが、ここに来て「本当にこれはeSportsかも」と思えるゲームに出会ってしまった。いまや世界で大流行のポケモンGOである。ご存じのように、街中に隠れているポケモンを捕らえて集めるスマホゲームである。

 

ポケモントレーナーたちが走る理由

 やったことない人、ハマっていない人は「単に歩いてポケモンを集めるだけだろう」と思うかもしれないが、これがけっこう激しいスポーツと化しているのだ。少なくとも僕は、走っても筋トレしても減らなかった体重が3kg、体脂肪率が2%、ポケモンGOを始めた3週間で落ちた。

 現在、ポケモンGOには149種類のポケモンが登録されているが、簡単に捕獲できるポケモンは50〜60種類で、それ以上はかなり努力をしないと出会うこともできないし、出会ったからといって必ず捕獲できるとも限らない。沢山のポケモンに出会うために、ポケモントレーナーたちは、常にスマホ片手に歩き回り、ネットで情報を収集し、近所にレアなポケモンが現れれば、猛ダッシュで走って捕まえにいく。

 レアなポケモンに価値があるのは、レアであるということだけでなく、ポケモン同士を戦わせるジムバトルで有利になるからだ。最強のカイリューというドラゴン型のポケモンは、ミニリュウというポケモンを32匹集めれば1匹作ることができる。ただし、カイリューならなんでもいいわけではなく、理想は「りゅうのいぶき」と「ドラゴンクロー」を使えるカイリューが最強とされているのだが、確率的には6分の1となる。ハズレのカイリューをひいてしまった人は、またミニリュウを32匹集める必要があるし、作ったカイリューを育ててより強くするのにも、またミニリュウが必要となる。

 ミニリュウは、河川沿いを歩いていればたまに出会える程度の、そんなにレアではないポケモンなのだが、上記の理由から大量に集める必要がある。そこで、ミニリュウが頻繁に出現する「ミニリュウの巣」とされる上野不忍池のまわりに大量のポケモントレーナーがあつまり、ミニリュウ狩りに右往左往しているわけなのだ。

僕自身は、呑川のすぐ近くに住んでいることと日頃の行いの良させいか、2番目に良いとされる「りゅうのいぶき」+「はかいこうせん」のカイリューを、ミニリュウの巣に張り付くこともなく作ることができた。それでも家の近所でミニリュウが出現すると、今でも時間がある限りダッシュで走って行って捕獲している。

 

知力と体力を尽くしてポケモンを捕獲する

 また、ポケモンGOの世界を深く知るにつれ、ミニリュウ以外にもいろんな理由で欲しいポケモンが増えてくる。そんなレアポケモンが出現するときは、捕獲に全力を注ぐ。

 ポケモンが近くに出たといっても、場所どころか方角も距離も表示されない。だから、自分のカンとこれまでの経験を元にした推察で目標とする場所を決めて、ダッシュする。ポケモンの出現時間は決まっていて(15分らしい)、それに間に合わないと消えてしまうからだ。

 ポケモンスマホ上にも表示されない、「ポケソース」といわれるほぼ固定されたスポットに現れるが、ポケモンの種類によって現れる場所に傾向がある。みずポケモンは河川や池、湖、噴水の近くに現れるし、むし、とり、くさなどは山や丘の上や周辺に現れる。最近気がついたが、ニドラン♂ニドラン♀というサイみたいな雌雄のポケモンはどうも坂の手前に現れやすいみたいだし、金髪ガングロギャルをモデルにしたというルージュラというポケモンは2つの学校の前で捕獲した。そんなポケモンの特性と、確認済みの周囲のポケスポットの位置を合わせて考え、目標の方角にダッシュする(街中では走るわけにはいかないので競歩程度だが、自宅周辺は人が少ないので、よく走っている)。

走っていて、途中でポケモンの影が消えたら方角が間違っていた事になる。時間と気力、体力が許せば逆方向にダッシュ。最近は、6割くらいの確立で狙ったポケモンをゲットできている。

 

ポケモンGOはスポーツだ!

はっきり言って、汗をかく。つかれる。ヘトヘトになる。でも、この疲れはTVゲームにハマって徹夜してしまったときの、よどむような疲れではなく、ジョギングや空手や水泳のときと同じ爽やかな疲れだ。

少なくとも、僕にとってはポケモンGOは知力と体力を尽くしたスポーツだと断言できる。

 

追記

ちなみに現在、トレーナーレベル25で図鑑の登録数は109。まだ無課金です。このままレベル26までは行けそうですが、さすがきつくなってきました。とくにバッグ(持ち歩けるポケモンと道具の数)の拡張はしないとダメだなと思っています。

 

追記2

このエントリを書いた日のうちに、レベル26に到達し、図鑑登録数は110に。1日でミニリュウが5匹、ハクリューが1匹の大漁。CP670で「とても強い」ミニリュウハクリューに進化させてCP1102。こいつを2匹目のカイリューにしようと思います。6匹目のギャラドスは、とうとう「たつまき」を引いてしまいました。HP131と高いのでジムの防衛要員かな。